トカゲ太郎のワンダー・ワールド
有明海を考える

(訪問日 2013年7月20日)

有明海は九州の福岡、佐賀、長崎、熊本の四県にまたがって広がっていて、そこには日本最大の干潟がある。ムツゴロウなどを代表とする様々な生き物が暮らす豊かな海だ。でもそんな有明海が今大きな危機に直面している。

荒尾干潟 有明海の東部にある国内有数の干潟。昨年7月ラムサール条約湿地に登録された。
荒尾干潟 有明海の東部にある国内有数の干潟。昨年7月ラムサール条約湿地に登録された。


海苔と海

有明海の抱える問題としてよく挙げられるのが諫早湾の干拓だ。一方、それだけではないと主張する人々もいる「NPO法人有明海を守る会」の渡辺年勝理事長もその一人だ。熊本港を拠点に漁業を営む渡辺さんによれば有明海の潮流は大きく二つに分かれていて、諫早湾の干拓が熊本側の潮流まで変えているとは考えられないという。魚介類の激減や海底に溜まったヘドロの原因は海苔養殖で行われている酸処理に問題があると、渡辺さんをはじめとする多くの漁師仲間は見ている。

諫早湾の干拓

有明海の中西部にある諫早湾(長崎、佐賀の両県に接する)の海水を抜き取って干上がらせ農業用の土地を造る国の事業。1989年から始まり、1997年に陸地化するための潮受け堤防が閉められた。これが有明海全体の潮流を変えてヘドロの溜まる原因となり、タイラギ貝の大量死や赤潮による海苔養殖被害を招いたとされている。また、堤防によって仕切られた海と造成地の間にある調整池内の水が汚れ、海水域に流れ出ているという見方もある。



「多くの河川が人間の生活圏を通って有明海に注いでいます。そのため陸上から汚染物質が流れ込んでいる可能性もありますが、年々その量は減っています。だから有明海の環境は次第に改善されていいはずなのに実際はその逆になっている。酸処理以外に見当がつかない」
と渡辺さんは訴える。

海苔養殖での酸処理は海苔の病気を防ぐとともにアオサなどの雑藻の繁殖を抑えるために行われる。酸処理剤は大きく分けて有機酸(クエン酸やリンゴ酸など)と無機酸(塩酸、硫酸、リン酸など)の二つがあるが、使用が許可されているのは有機酸だけだ。ところが、渡辺さんたちが問題視しているのはまさにその有機酸の方だ。

トビハゼ
トビハゼ
干潮時、泥の上をはい回る姿がよく見られる。

有機酸の一つクエン酸を害にならない程度に薄めるためには多量の海水が必要になる。そのため使われたクエン酸の一部が残って海水中の有機物の量を増やしてしまう。こうなると増えた有機物を分解するために海水に溶け込んでいる多くの酸素が消費されて魚類に必要な酸素が足りなくなってしまうのだ。さらにクエン酸は有用なバクテリアをも殺してしまう。バクテリアの中には死骸やフンを分解して植物プランクトンに必要な栄養塩類を作り出すものがいる。植物プランクトンが減ればそれを食べる動物プランクトンも当然減り、それらのプランクトンをエサとする魚や貝類もいなくなる。そして、こうした生き物の死骸が海底に溜まってヘドロ化し、その中が貧酸素状態になって底生生物も死滅してい くという悪循環が続く。

「実は私もかつて海苔の養殖をしていたのですよ。ある日、酸処理のためにクエン酸を養殖網にまいたのですが、海苔の回りから小エビや小魚がみるみるうちに離れていった。それで辞めました。農薬まみれの野菜に虫がつかないのと同じです。」
と渡辺さんは自らの体験を語る。

トカゲ太郎


地元の高校生が生き物の生息調査をしていた。先生がとても珍しいものが採れたと「ミドリシャミセンガイ」を見せてくれた。
地元の高校生が生き物の生息調査をしていた。先生がとても珍しいものが採れたと「ミドリシャミセンガイ」を見せてくれた。

生徒さんたちが採集した干潟の生き物。
生徒さんたちが採集した干潟の生き物。
ミドリシャミセンガイ
ミドリシャミセンガイ
   名前に反して貝類ではない。近年数が減ってしまい準絶滅危惧種に指定されてしまった。生きた化石ともいわれる。

疲れる海苔

有機農業を行っている農家がいるように海でも酸処理をせずに海苔の養殖をしている人々がいる。でも、酸処理なしではただでさえ重労働な海苔養殖に余計な手間がかかることもまた事実だ。そこで有明海を守る会では薄めた無機酸を使用することで海の汚染を防げると提案している。無機酸は無害化するのに有機酸のように大量の海水を必要としないからだ。しかし、それでも無機酸の導入は行われていない。塩酸が使われた海苔では消費者が嫌うだろうと考えて見送っているのだ。では海苔の品質自体はどうなのだろうか。酸処理した海苔は色が黒々として固く、パリパリとした食感がある一方、磯の香りや味の面では酸処理なしの海苔に劣る。安さと見た目を重視した消費者向けの海苔といっていいだろう。

そもそも現在の海苔養殖は海苔に大変な負担がかかっている。かつては4~5回が摘み採る海苔の限度だったが、今は10回も摘み採る。
「老人になるまで酷使しているようなものです。」
と、渡辺さんは残念そうに話す。
「最後にはあなたのズボンのような色になってしまうのですよ。」
と、渡辺さんの仲間の漁師さんがトカゲ太郎の薄茶色のチノパンを指しながら教えてくれた。

干潮時は様々な生き物が泥の上に顔を出して食事に忙しい。
干潮時は様々な生き物が泥の上に顔を出して食事に忙しい。
熊本港近くの干潟。熊本港大橋の向こうには金峰山が見える。
熊本港近くの干潟。熊本港大橋の向こうには金峰山が見える。渡辺さんは16歳から50年間漁師を続けてきた。

海はつながっている

海洋汚染の防止を目的とした「ロンドン条約」という国際条約がある。有機酸の使用はこの条約に違反しているのではないかと渡辺さんたちは水産庁に指摘したところ、同庁から網に散布しているもので違反にはあたらないという回答があった。とはいえ海はつながっている。有明海が今以上に汚れてしまえば回りの海へと広がって行かないとも限らない。漁獲量が減った理由は海の汚れではなく乱獲が原因ではないかとの指摘に渡辺さんはこう反論する。
「それならば規制してくれたらいいのです。同時に海の環境をもっと整える必要がある。汚れた水が減った一方で、山林が荒れてミネラルなどの栄養を十分含んだ水が流れてこなくなった。有明海の環境を取り戻し、維持していくには山や川の環境も含めていろいろな角度から考える必要があるのです。」

有明海を取り巻く課題は日本全国の海で起きている。干潟の消失、藻場の減少、海水の汚れ。でも瀬戸内海のように藻場を人々の努力で広げた例もあるように今からでも遅くはない。でなければ負の影響は生産者(漁業、養殖業など)、流通、行政、消費者の全員に及ぶだけでなく、未来の人々にも豊かな海を残せないことになる。

まずは考えよう、海のこと。

ワタリガニ
ワタリガニ
今年はワタリガニやクルマエビがよく獲れるという。渡辺さんによれば洪水のあった翌年は陸から栄養が十分供給され、ヘドロも舞い上がってエビやカニ類は豊漁になるという。